眠りの森の魔王様 第二章 - 11
  



 黒光りするほどに磨き込まれた漆黒の美しい書き物机に突っ伏しているのは長い黒髪を背中で一つに束ねた人物だ。その人物は机の上で身動き一つしないため、眠っているのかそれともその鼓動が止まっているのかさえわからない
 窓の外は宵闇か迫る刻限だと言うのにその部屋には卓上灯が一つ灯るのみ。その灯も先ほどからオイルが少なくなったのか灯す炎が徐々に小さくなっている。
 わずかに残っていた空の茜色も完全にうせ、と同時に卓上灯が最後に吸い上げたオイルを燃やし尽くし盛大な炎を灯したが直後にふっと命を散らした。
 その一瞬の鮮烈な輝きに覚醒を促され、彼はゆっくりと上半身を起こした。その動作にあわせて流れる漆黒の滝の隙間に覗いたのは秀麗な面立ちだった。
 切れ長の目を細めて周囲を見やった後枕替わりにしていた己の手で髪をかき上げる。
 至って普通の動作なのだが彼が行えば余人の視線を奪い尽くしそうなほどに美しい。
 が、当の本人はそのような事を全く意識していないらしく、軽く体を伸ばしながら大きな欠伸をした。
「少し眠ってしまったか」
 小さく呟いてから、首から上だけを動かして窓の外に目をやる。
 ほんの少し休憩をいれたつもりであったが、いつの間にか眠りに落ちてしまったらしい。口をも付けられずに冷めてしまった紅茶がペン立ての横にそのまま置かれていた。
 さすがに疲れがたまっていた。魔界から帰って2日経ったが、エドアルドは一睡もしていなかったのだ。
 マリアに半日の休みを与えたあとは丸一日使って詳しい事情を聴取していた。
 しかし、それはエドアルド自身が休暇をとって非公式に行ったものであった。早く報告書を出さなければならない事も、この事態が内密にして置けることではない事も理解はしていた。理解していたが、エドアルドは未だ報告書を出せずにいた。
 事が上に知れれば叱責をうけるのは他でもないマリアである。現在でも彼女への風当たりは決して良くはない。特に上層部、特権階級がひしめくセナリスにとって彼女は未だ危険な人物として認識されている。あれほどまでに彼女を酷使している今もなお!
 得体の知れない程強力な魔力をやどした彼女は彼らにとって薄気味悪い存在でしかないのだ。
 その事を悔しく思う自分がいるにも関わらず、エドアルドは立場ゆえにそれを口には出せない。彼にとってマリアは少し世話のかかる、だが可愛い妹で、そして1人の普通の少女である。
 報告書を作成しなければならない事は重々承知している。しかし彼の体はそれを頑なまでに拒否していた。そして脳の何処かが囁く。今まで何ごとも起こらなかったではないか、これからもきっと何事もなく過ぎていく、と。
 加えて時期も悪かった。10日後には建国祭が始まる。
 建国日の前夜から3日に渡って行われるその式典は正しく魔王の封印を祝して行われるものだ。
 そこまで考えて、口腔に広がった鉄錆びた味に己が唇を噛んでいた事に気付く。
 親指で口を軽く拭うと、思ったより多い赤い血が指を汚した。
「何をやっているんだ…」
 小さく一人ごちてから、彼は机に両の手をついて立ち上がった。
 すっかり部屋は暗くなっていたが、闇になれた目はらばわざわざ灯を燈す必要はなく、手早く書類を纏めるとそれを手にしたまま部屋の出口へと向かう。
 休暇を取った間にたまった仕事は今晩中に仕上げなければならなかった。




 静かだった。静寂が満たすその場には2人の人物がいるというにも関わらず、その息遣いすら聞こえない。
 夜風が凪ぐ。
 どこからともなく漂って来る微かに甘い芳香は天球にかかろうかという月が放つ冴え冴えとした光を和らげるかのようだ。
「いい香りですね」
 聞くに心地よい声音が静寂に混ざった。重くも軽くもないその声は夜の闇に溶けていくが、それと同時に別の声が響いた。
「フィルナという花だ。建国祭の時期にさく、フィルナージュの化身らしい」
 どこか嘲笑を含んだその声は前者のものよりも少し低いが聞くに心地よいものであることには変わりない。
「フィルナージュの化身ですか。本当に信心深いですね、人族というものは」
「どうだか。さて報告を頼む」
 軽く話を流したあと、彼は本題に移った。要求を受けたもう一方の男は淡々と言葉を口から吐き出し始める。
「今回の一件は赤公、白公、青公が共謀して行ったもの。赤公がマリア様の身を確保した上で私の注意を引きつけ、青公と白公がフェルシス様の説得に動く算段であった模様です」
「ああ、二公の気配には気付いた。接触はなかったが」
「大公会議の連署を用意しておりましたが、いかがなさいますか」
「知ったことを訊くな。黒公を欠けば連署も効力はない」
 しばらくの沈黙の後に月光に映える銀髪の男が口を開いた。
「報告内容はそれだけか?」
「はい」
「……今回は放免にしてやる。だがいい加減にあの嫉妬深い女をどうにかしろ」
 そう言われた男は眼前の主がすべての事情を見通していたことに今更ながらに気がついた。
 これではわざわざあの場で彼女を問い質さずにおいた彼の思惑は無意味である。公使の身で彼女とその話をすれば主へと報告しなければならない。そうなれば叱責が飛ぶと見越しての行動であったというのに。
「全てご存じでしたか」
「お前は私をなんだと思っている?」
「敬愛すべき主君であり、比類なき我らが王であらせられる、と」



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