果てがないほど深い闇のその奥に彼はいたのです。
その容貌はとても言い表せないほどに醜悪で妬みと嫉み、悪意に満ちていました。そうです。彼はほんの少し前に一千年もの間己の体を縛り続けた呪いから解放されたばかりだったのです。
彼は一千年前までは確かに人でした。どれだけの罪業をその身に持っていようと彼は人と言うことが出来たのです。
しかし今、彼は人ではありませんでした。
彼はその身を封印した者達を一千年間にわたって恨み続け、そのあまりに醜い心は何時しか彼を悪魔でもなく人でもないものへと変えていたのです。
彼が封印された地底のそこは光と名の付くものなど一切無く、無数の妖魔や魔獣達に満ちていました。
呪いから解かれた彼は昔の面影など一切残っておらず、その容貌は魔の世界の住人達でさえも恐れるほどでした。
彼は呪いが解かれたその時に、己の周りにいた魔物達を屠りました。あまりに強いその恨みは何時しかあまりに強大な魔力となり彼の身に宿っていたのです。
もはや誰も彼にかなうものはおりませんでした。
生まれつき低脳な魔族達と違って彼は元々は人間です。一千年前、その知をふるい数々の悪行を犯してきたその人です。一千年の間にその謀略の深さは闇よりも暗いものとなっていたのです。
今や彼に出来ないことなぞこの世にありましょうか?
一千年の間の切望がかなうその時がやってきたのです。
あまりに深きこの恨み、はらすは今この時ぞ
地上に戻った彼は魔王の化身のようでした。いや、実際魔王だったのかも知れません。人々は彼を恐れました。
しかし、あまりにか弱き人間にはどうすることも出来なかったのです。
ある時、彼は1つの国を滅ぼしました。
逃げまどう人々を見るのは快感でした。それよりもなお、己の命のみを考える卑小な人間の本当の姿を見ることが何よりも彼を喜ばせたのです。
肉親同士での殺し合い、愛し合う者達の裏切り。
この世の何処に真実があるというのでしょう。
見ろ、我を封じた愚かな者達よ。
お前達のしたことのなんと無意味なことか。
なんと残忍な人の性!!
しかしそれでも彼は満足しませんでした。彼の欲望は飢えると言うことを知らなかったのです。
そんな彼の目に入ったのはあまりに幼い少女でした。
人を疑うことを知らない少女。
清く、誰からも愛され、汚れを知らない少女。
己の対極に位置する少女。
彼はその心を破りたいと思ったのです。踏みにじり、傷つけ、己と同じ憎しみと疑りと嫉妬が混じった漆黒の闇で侵したくなったのです。
彼は己の心に住む尽きること無い悪意と汚れきった魔力と黒く濁った己の血を捏ねてあまりに危険な毒花を作ったのです。
その花は大変美しいものでした。
純白の花弁に鮮やかな緑の茎。
とても毒花には見えません。とても彼が作ったものには見えません。
それでも、その花は確実に悪しき力を秘めていたのです。
白い花弁は清いものではなく、あまりに官能的に人々を誘惑しました。その花びらに触れると人々はたちどころに帰らぬ者となってしまうのです。帰らぬ者となった者達は例外なく肉体は死んでいながらも精神だけは悪夢の中で生き続けるのです。
そして、その花には1つの茎に最悪の数とされる13もの花が付いていたのです。
用意は調いました。
彼は己の姿ををこの世で一番醜いものに変えました。
何故かってそれは、彼自身のそれは既に人外のものへと変わっていたからです。
彼はその花を持って少女の前に姿を現しました。
ああ、その醜さと言ったら!
皮膚は爛れて変色し、腕は変形したものが一本だけ。足はあまりに短くその用をなしません。そしてその顔は語ることのできないほどの醜さ。瞳は片方しかなく、しかも眼球は異様に飛び出、唇は紫と緑が混ざった色で顔の半分に偏っています。鼻に至っては存在すらしなかったのです。
それを見た人々は顔を背けます。道行く人は石を投げ誰も彼の近くには寄りつこうとしませんでした。
「ああ、この醜き私の姿。何時になればこの嘆きは尽きるのか……っ」
少女は彼に言いました。
「どうしてそんなに嘆いているの」
「姿があまりに醜いが故」
「醜かったらどうして嘆くの」
「醜さ故に愛されることを知らなかったから」
「お父様とお母様がいるというのに?」
「あまりの醜さ故、両親は私のことを捨てたのです」
「何故愛してくれる人を捜さなかったの?」
「醜さ故に皆顔を背けて逃げてゆきます」
「何故醜かったら逃げるんでしょうね?」
「醜いことを嫌うのでしょう」
「醜いと言うだけで人を嫌うことなど出来るのかしら?」
「ならば貴方は私を愛してくださいますか?」
心の中で彼は微笑んだ。
さあ、己の本当の心の醜さを思い知るがいい!!
彼は後ろ手に持ったあの花を差し出します。
彼は少女が自分の申し出を受け入れないことを確信していました。そうでなければ、彼は子のような茶番劇を思いつかなかったからです。
さあ、拒むがいい。
己の醜さに絶望するがいい。
そうです、彼は知っていたのです。己を清いと思っている者は己の中に潜むそのあまりにも残酷な本性を知ったときにこそ深く傷つくのだと。
少女は花を受け取ろうとしません。
ああ、待ちこがれたその時が訪れたのだ。心を砕くその瞬間。
彼は伏せていた顔を上げ、
「ほら、お前もだ!ああ認めよう、私の姿はとても醜い。だがお前の心はもっと醜いっっ」
彼には顔を伏せている少女の表情など見えません。
ああ、快楽の瞬間。
人の心を砕くというのはなんと楽しいこと!
彼にとって人間という存在は塵に等しき者でした。楽しんでしまえばもういりません。後は悪夢の中で苦痛と恐怖と飢餓を永久に味わい続けさすのです。
彼は花を少女の体に触れんばかりに突き出しました。
するとどうしたことでしょう。
一滴の涙がポタリと花の1つに落ちたのです。
彼には分かりました。少女の涙が落ちた花びらから己の妖気が消えていることに。
「そんなに孤独なの、あなたは。ああ、私は今まで孤独を知らずあまりに幸福すぎたのね」
それは彼の予想を遙かに上回る事でした。
彼はあまりにも憎しみと孤独の中にいすぎたのです。
少女のその一言で彼はうち砕かれたのです。信じていた全てを壊されたのです。
彼に何が出来たでしょう?
そう。
彼は己が愛情に飢えていたことに気付いたのです。
全てを負の糧として生きてきた彼です。その愛という名のもっとも聖なる感情が生まれた瞬間に彼は朽ちざるを得なかったのです。
少女のその涙と言葉は彼を人へと戻し、人に戻った彼は見る間に朽ち果てました。
彼は失せました。
永久に。
もう蘇ることはなかったのです。
風が彼の体を運びました。
風に舞い、彼の体は宙に溶けていきました。
これで魔王と少女のお話はお終いです。
花?そうです、花です。最も気に掛かっているだろうその花は役目を果たしこの世から消えたのです。13の花が付いたあの毒の花が触れた最初で最後の人間と共に。
そう、彼と共に。
ああ、そうだ。もう一つだけお話ししておきましょう。少女の名前はミレラーン。失われた古き言葉で『穢れなき者』。
彼女がそれからどうなったかを知るものはもう何処にもいないのです。
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