頭上から降り注ぐ陽光を浴びながらエリックはゆっくりと中庭を歩いていた。
さすが聖教徒会の本部というべきか、手入れの行き届いたその庭は中央の噴水を中心に上下左右対称に作られた美しいものである。花の季節ではないために華やかな色彩こそ欠くものの、植え込みの木々は青々と生命力に満ちた葉を茂らせている。
昼の休憩時間を持て余して庭にでたものの、目的があるわけでもない。
あまりにも平穏なこの日常を壊してしまいたくなる。
特に彼女と一戦を交えた今日は。
「あれとの手合わせはどうだった?」
突如として背後から掛けられた声にもエリックは驚かなかった。
「貴方ほどの道楽好きがご覧にならなかったとは珍しい、フェルス様」
声を掛けてきた人物に向き直ってから、言い直す。
「いえ、フェルシス様とお呼びした方が宜しいでしょうか」
そのエリックの言葉とほぼ同時に何故かフェルスの姿が二重にぼやける。両方ともフェルスであることは確かなのだが、片方のフェルスの耳は人間のそれとは異なり、先端が異様に尖っていた。
二重にぼやけたままの姿でフェルスが苦笑する。
「お前に呼ばれると流石に術を保つのは難しいな、道楽好きかどうかはさておいてだが」
「そうでしょうか」
エリックがそう返事をした時にはフェルスの姿は元に戻っていた。
「あれは強かったか?」
「封印をといた者ですよ?強くない方がおかしい」
「本気で戦ってはいないだろう、お前も」
「それは彼女とて同じですよ。・・・彼女は実戦向きですね。訓練で彼女の真価が発揮されることはないでしょう」
強制的に着用させられた着苦しい青紫色の聖服。
『不可解』な理由で自分に回ってきた役目。
出かけ際に向けられた友人の顔。
全てがマリアの癇に障っていた。
現在マリアは王都の街を歩いていた。王都、とは言っても王宮や貴族の邸宅が並ぶ中心地からはかなり離れたところで治安はそこそこ。盗みなど珍しくもない。
第3部隊のお役目だったはずの王都警護の役割が(マリアに言わせれば)全く持って理不尽な理由で回ってきたお陰で彼女はヒマをもてあましながら通りを歩いていた。
王都警護という任務は名前だけで実際は何の意味もなしていない、そう思っている聖士はマリアを含めてざらにいたし、実際、それは正しかった。聖士が王都で行う任務など治安警備隊のみにまかせても何の問題もない。
その理由は王都の成り立ちに由来する。
王都と言うからにはやはり王宮があり、国王が存在している。それは当たり前のことだ。だが、この国にはその国名がないのだ。
では何故その名がないかというと、実に単純明快で、この世界に唯一存在する大陸アルデラーンにたった一つしか国が存在しないからである。
つまるところ、単に王国と称されるこの国は大陸アルデラーンそのものなのだ。そしてその唯一の王国の王家というのは約四百年前から始まった。そう、聖女フィルナージュが魔王を封印したその時から。
彼女の末裔が現王家であり、彼女の肉体が土へと帰った地が現王都である。
大陸で最も聖なる地。魔界の住人達が最も忌む地。
それが王都である。
魔界の住人達がおいそれと入って来られるところではないのだ。
さらに言えば、魔族が現れない土地に聖士の仕事など存在しないのだ。
「ま、最も例外はいるものだけどね」
マリアは小さな声でそう呟く。
言うまでもなく、フェルスとエリックのことがである。
「フェルス、ね。あいつは一体なんだって言うの?四百年前に大陸を襲っておいて、今はあたしと契約を交わしている。どう考えてもおかしすぎる。いえ、おかしいのは大陸史の方?四百年前、本当にフェルスは大陸を襲ってきたの?」
考えれば考えるほどわき起こってくる疑念。
それにもはや魔界の者とて彼らの王が封印から解放されたことを知っているだろう。王が帰らぬことに異論は無いのだろうか。
「この問題は後回しね。なんだっていつも厄介事が増えてくのよ」
そうマリアが呟いた時だった。
「だれかその坊主を捕まえてくれっっ」
突如として通行人の1人が声をあげた。見れば片手に何かを握りしめた少年がこちらに向かって走ってくる。その背後からひげを生やした中年の男が声をあげながら走ってきていた。
どうやら少年が男の懐から財布をすったようだ。
見なかった振りをするわけにもいかず仕方なく少年の行く手を遮る。マリアの優れた動体視力はその少年が懐に隠し持っていたナイフを素早く取り出したのを見逃さなかった。反射的に跳び、少年のナイフの先から逃れたは良かったものの、何せそこは人通りの多い真昼の街。着地地点を確保することが出来ず、体勢を崩してしまう。普段なら術を使ってとっ捕まえるのだが、一般市民に向かって―――例えそれが犯罪者であろうとも―――許可なく術を使うことは許されていない。しかたなく、少年の後を追いマリアは走り始めた。
簡単に追いつけると思ったのは誤りで、小柄なその少年はかなりの俊足で細い路地を駆け抜けていく。そろそろ終わりだ、とマリアの頭の中で警鐘が鳴った。少年が向かおうとしている先は王都でも特に治安が悪い入り組んだスラム街だ。これ以上、後を追う気にはなれない。マリアはあっさりと走るのを止める。あの中年親父には悪いがここまでだ。
きびすを返して元の場所に戻ろうとしたマリアの前には1人の女が立っていた。
何時の間に姿を現したのかすらマリアには分からなかった。しかし頭で考えるよりも早く、マリアの五感が女が僅かに発する魔力の気配とその尖った耳を認識していた。
魔族っ――――!!
何故王都に魔族がいるのか、疑問に思わなかったわけではない。しかしその事について深く考えている暇はなかった。
瞬時にマリアの体は戦闘態勢にはいる。
「職務を忠実に行わないなんて聖士の風上にも置けないわね」
女の体を黒い長衣が覆っていた。しかしその下に、人族とは比べようのない程強靱な肉体が隠されていることは言うまでもない。
「生憎、職務に忠実な聖士だったことは一度もないの」
女から微かに感じられていた魔力が堰を切ったように狭い住宅街にあふれかえる。
「あらそうなの。でも私は職務には忠実な女なの。特に、紅の御君直々の職務の場合はね」
上級魔族だ。直感がマリアにそう囁く。
「でも忠実にこなせる自信がないからお仲間を連れてきているのよね?」
「その通りよ。でもだからこそ御君の命を果たすことができるわ」
女の声に合わせて2人の魔族が姿を現す。
上級魔族が3人。加えてこちらの装備は万全にはほど遠い。迂闊だった。
「………始末しようって言うわけ?」
「違う。我らの任務はお前を御君の元に連れて行くこと」
答えたのは女ではなく、別の魔族だった。
「今戦ってもあたしはあなた達に勝てないでしょうね」
確認をするかのようにマリアが小さく呟く。
「それはお前の力量次第だ」
…………………。
「じゃあ、降参」
「なんだと?」
声を発したのはマリアの背後にいる魔族だったが、正面に立っている女も訝しげな表情をする。それを見ながらマリアは戦闘態勢を解除した。
「降参って言ってるのよ。勝てる見込みのない戦いはやらないわ、命に差し支えない限りは。はやくその紅の御君とやらの所に連れてったら?」
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