眠りの森の魔王様 第三章-4
  



 狭い部屋の中で文字を追っていた男の頭が不意に動いた。先ほどまで微動だにしなかったその男は、手に持つ書物から頭をあげて一瞬空をみつめる。
「消えたな」
 協会本部の敷地内に立てられた寮の一室で、フェルスはそう呟いた。
 フェルスの契約主、つまりマリア・ウィルビッシュの気配がこの世界から消えたのだ。それが意味する可能性は二つある。
 一つは彼女が死んだということ。
 もう一つは彼女がこの世界以外の場所、つまり、魔界か天界にいったということ。
 前者はどう考えてもあり得ない。
「動いたか・・・・・」
 フェルスはそれまで読んでいた本を閉じ、堅く狭いベッドから立ち上がった。




「マリアが帰ってこない?」
「はい、任務の交代時間になっても一向に」
「帰隊時刻を告げたか?」
「勿論です」
「あれのことだ。任務を忘れて街を回っているだけだろう。ここで大袈裟にしても事後処理に手間がかかるだけだ。時刻には多少遅れたが、許容時間内に帰隊したという処理を行ってもらう」
「了解しました」
「彼女が帰隊したら私の執務室へ必ず来させてくれ」
「はい。では失礼します」
 警護役の管理を請け負う聖士はそう言うと略礼を行い、エドアルドの部屋を出て行った。
 扉が閉まるのとほぼ同時に、起立してその報告を受けていたエドアルドは背後の椅子に埋もれるように深く座る。
「あの馬鹿が」
 普段表情に乏しい彼が、1人の今はその渋面を隠そうともしない。
 軽く眉間に手を当てしばらく考え込むような仕草をした後、彼は椅子に浅く座りなおすと机の上に置かれたままのペンを手に取る。
 報告を受ける前に目を通していた書類に再び視線を落とすと文字の羅列に目を走らせるが、表面を撫でるだけで中身が頭に入ってこない。
 それでも書類の頁を捲って次を読もうとしたが、結局は諦めた。
 マリアの事が気にかかり、全く集中できないのだ。
「何処をほっつき歩いている」
 小さく呟く。
 彼の知る限り、マリアは型破りな所もあるが時間には正確だ。帰隊時刻を破ったことなど滅多にない。だからこそ管理者もわざわざエドアルドへ報告に来たのであろう。
 何事かに巻き込まれているのか。
 それとも単純に時刻を忘れているだけか。
 彼女ならばそのどちらでもありえる。
 そう思うとエドアルドは眼前に詰まれた書類の山に手を着けることが出来なかった。
 その時、軽いノックの音が部屋に響いた。
「誰だ?」
 先ほどの者が再び報告に来たにしては早すぎるし、かといって来客の予定も無い。新たな裁可を求める仕事かと思うと、その声が自然と不機嫌なものとなるのは致し方なかった。
「フェルスだ」
 その声は予想外のものであった。驚くと同時に、何かしら漠然とした不安が胸の内におこる。今だ帰隊しないマリアと突然現れたその契約者。結びつけるのが当然だろう。
「入れ」
 返答がまだであったことに気付き、あたかも仕事から手が離せず遅れてしまったかのように繕いながら入室を許可する。
 音も無く開いた扉から入ってきたフェルスをエドアルドは自然を装いながら迎えた。
「何のようだ?」
「大方の予想はついているんだろう」
 その薄い唇は笑みさえ浮かべながら、お前の不安は的中したのだと告げているのか。いや、そう思うのはエドアルドが今だこのフェルスという魔族に対して警戒心をもっているからだろう。
「マリアのことか」
「ああ」
「先程、マリアが帰隊時刻を過ぎても帰らないとの報告を受けた。何か知っているのか?」
 声が硬くなるのを自覚していたが、今更それを隠そうとも思わない。何の前触れもなく現れたこの魔族が、マリアの身に何かしらの危険をもたらした可能性は高い。
 既にエドアルドの中でのこの魔族の認識はマリアの契約者から敵へと変更されようとしていた。
「知っている。だが、その前にもう1つ告げておこう」
 肯定の言葉の後に続いたその台詞にエドアルドは怪訝な表情を浮かべる。だがそれを気にもかけなかったようにフェルスは続けた。
「私の名はフェルシスという」
「…………封印を解いたのはマリアか」
 口をついて出てきた言葉は自分でも信じられないほどに冷静だった。
 彼の言葉が嘘だとは思えない。何故か彼女ならばその言葉が真実であってもおかしくは無いと思える。平静でいられるはずの無い感情すらも彼女の存在が納得させた。
「明答を得たな」
 魔界の王は嫣然と微笑む。
 その微笑を見てエドアルドは深く嘆息した後、素早く意識を切り替えた。
「その話は後だ。マリアに何があった」
「その切り替えの速さと冷静さは好ましいな。流石はフィルナージュの系譜に繋がる者、といったところか」
 褒め言葉に対し、エドアルドは相手を無言で睨みつけ先を促す。
「臣下の者に先走った者がいるようだ。どうやら今、マリアは魔界にいる」
「ふざけるなっ!」
 理性よりも感情が先に罵声を放っていた。
「どうしてそんな事になった!?危害を加えて連行したのかっ!?」
 王都警護の際の装備は簡易戦闘服ですらない。彼女が身につけていた装備は銃とダガーが良くて数本だろう。その状況で魔族に襲われたというのだろうか。ならばいくら彼女でも無傷では済まない。彼女の身が心配だった。
「あれに危害を加えようとするほど愚かな臣下がいるとは私も思いたくは無い。案ずるな、少なくともマリアの命は保証しよう」
 そのフェルスの言葉は暗に事態を放置しろと告げている。しかし、エドアルドとてここでむざむざと退けるわけがなかった。
「見逃せとでもいうのか?馬鹿にするな。第一、お前の言葉など信用できるものか!」
 一息でそう言ったエドアルドに返ってきたフェルスの返答は冷ややかなものだった。
「それがどうしたというのだ?お前が私の言葉を信用できなかったとしてそれでどうなる?掛かっているのはお前の命ではなくマリアの命だ」
 この会話は初めから意味をなさないものだったのだ。
 こちらは相手の要求をのむこと以外の選択肢を与えられていないのだ。そう理解しながらも、反論せずにはいられない。
「ならば何故、俺にその事を言いに来た?たかが人族の女1人の安否をわざわざお前が危険を冒してまで俺に言いに来る必要があったんだ!?」
「危険?危険など何処にある?お前に会うことが私にとって危険だとでも言いたいのか?」
 その言葉にエドアルドは返す言葉がなかった。フェルスは魔界の王。いくらフィルナージュの血をこの身に引くとは言っても自分はただの人族。戦ったところで結果は目に見えている。
 感情は収まらない。しかし頭ではこれ以上自分には何も言えず、何も出来ないということを理解していた。
 何の言葉も返さないエドアルドを冷たい目でしばらく眺めた後、フェルスは人好きのする笑みを浮かべて告げる。
「だが目の付け所は悪くない。私の質問に答えれば選択肢を増やしてやろう」




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