眠りの森の魔王様 第三章-8
  



 鼻歌でも歌いだしたい気分で、しかしマリアは足音も立てずに歩く。
 幼いころに訓練所で叩き込まれた結果、今では無意識のうちに足音を消して歩くようになっている。
「何で見張りが立っていなかったのかは分かんないけど、ま、おかげで楽に外に出られたんだからありがたく思わないとねぇ」
 いくら足音を消していても声を出せば何の意味も無くなるにも関わらず、マリアは小さく呟いた。
 あの男がこちらに来たのならば身の安全は保障されたも同然と、少々手荒な手段を使ってでも強行突破をしようと文字通り牢破りをしたのだが、その結果は呆気ないほど上手くいった。
 牢屋の格子が金属質である所に目をつけ、錠が下ろされている箇所に超高温の熱波をあてすぐさま超低温冷気をあてる。熱疲労によって急激に脆くなったその箇所に、ちょっとした衝撃を加えてやれば錠の施された部分の格子はいとも簡単に崩れ去る。
 無論、破壊衝撃波をあてて牢屋ごと吹き飛ばしてもよかったのだが、その後に嬉しくないおもてなしを受けるのは目に見えていたため、なるべく音を立てないように事を運ぶ必要があったのだ。
とまあこういうわけで牢から抜け出したマリアは、目的すら持たずに建物の中を忍び歩いていた。
 いくら牢を抜け出しても、こちらの世界にマリアの味方などフェルスを除いて存在するはずもないので、身をかくまう場所すらない。
 つまるところマリアは闇雲に牢を抜け出し、闇雲に建物内を彷徨っているといってよかった。
 唯一目的らしいものといえば、フェルスに会うことである。しかし、彼がこちらの世界に来ていることは分かってもその居場所までが分かるはずもなく、フェルスと接触する方法など皆無に近い。
「・・・・・・早まったかなぁ」
 あまりにも早すぎる後悔の台詞を呟きながら、石作りの廊下を周囲に注意しながら慎重に進む。
 と、その時背後から足音が聞こえてきた。
 規則正しい歩調からして、どうやら見回りの衛兵のようだ。
 ちょうど角を曲がったところにいたため、まだマリアの存在には気づいていないようだが角を曲がってしまえばその先は遮蔽物のないまっすぐな廊下が続いており、身を隠す場所すらない。等間隔に燈された灯りの存在を除いても、視力にも優れた魔族がマリアの存在に気付かない可能性はゼロに近い。
 壁にぴったりと身を添わせ、見つかりにくいようにしながら素早く、かつ慎重に身を隠せそうな場所を探す。
 足音が曲がり角のすぐ傍まで来ている。
 もう駄目か、と思ったその時、後ろ手にしたマリアの左手がドアのノブのようなものに触れた。
 素早く中の様子を探ってみるが、何かしらの気配は全くない。
 逡巡したのは一瞬で、次の瞬間には音を立てないように扉を薄く開き、薄暗い部屋の中へ体を滑り込ませていた。 
 しかし、安心するのはまだ早い。
 ゆっくりとドアを閉め、呼吸を整えると、自身の気配を薄めていく。
 いや、薄めていくという言い方は正確ではない。気配を周囲に同化させていくのだ。
 単調な足音は変化することなく、マリアが忍び込んだ部屋の外を通過していった。
 すぐには動かず、暫くしてから、マリアはようやく行動を始めた。
 まずは己のいる場所を、つまり咄嗟に飛び込んだ部屋の中を確認する。
 肺に吸い込む空気の埃っぽさから考えても、この部屋は滅多に使われてもおらず、手入れもされていないのだろう。
 マリアが入ってきた扉の向かいの壁には窓があるようだが、重たいカーテンが掛けられ、その隙間から僅かな光が零れるのみだ。
 すぐに部屋を出ようかとも考えたが、どうせ出たところで目的も無い。
 そう考え直し、マリアは窓際に回ると音がしないようにそっとカーテンを開いた。
 薄暗い場所になれた瞳には窓から差し込んでくる光が眩しかったがじきにそれにも慣れる。
 完全に目が慣れきったところでマリアは部屋を見渡した。
 部屋の中央には、品が良いことは分かるがすでに古びてしまった赤い天鵞絨張りの応接セットが置かれている。しかしそれ以外に家具らしいものは一切ない。
 その代わりに、いくつもの絵画が四方の壁を埋め尽くしていた。
 それらは全て誰かしらの肖像画のようだ。
 描かれている人物に共通した特徴はなく、先祖代々の肖像というわけではなさそうである。
 しばらくそれを見つめていたマリアはその1つに見知った顔を見つけた。マリアをここへ呼んだらしいあの赤髪の女である。
 マリアの考えが正しければ、彼女は四公の1人、紅の座を継ぐ者であるはずだ。そう考えれば紅の御君という呼称も、あれ程の魔族を配下に持つのにも、城へ連れて来られた事にも納得がいく。
 ということはここに描かれているのは歴代の紅の座なのだろう。
 しばらくその絵を凝視した後、何気なくその次の絵に視線を移す。
「え?」
 咄嗟に口から出たのは間の抜けた疑問符だった。
 赤髪の女の横に置かれた肖像画に描かれていたのはマリアが良く見知った男の顔だったのだ。
 今とは少し印象も違い、若干若いようだがそれはまぎれもなくマリアの契約者であり、魔界の王でもあるフェルスのものだった。
「魔王の前は紅の座だったの・・・?」
 魔界の王は純粋なその力の強さで選ばれるため、紅の座であったフェルスが前王の力を凌いで王となったとしても不思議は無い。
 だがどうしてもマリアは違和感を拭いきれなかった。
 紅の座に満足せず、ついには魔界の王となり、最終的にはその支配を人界へも及ぼそうとした。
 そう聞けば誰もがフェルスを貪欲な野心家だと考えるだろう。
 しかしこの数ヶ月フェルスと行動を共にしたマリアにはどうしてもそうは思えない。
 むしろ彼はそういった事にはかなり淡白な気がする。
 いや、淡白と言うより興味が無いのではないだろうか。
 本当に彼が人界を襲ったのだろうか?
 湧き上がってくるのはそんな疑問だ。
 しばらくフェルスの肖像画を眺めていたマリアだったが、いつまでもこの部屋にいるわけにもいかない。
 肖像画の前から離れ、窓際へと向かう。
 少しでも現在地を把握できないかと考えたからだ。
 しかしこの窓は中庭に面しているらしく、これといって手がかりとなる情報も得られそうに無かった。
 中庭には噴水らしきものがあり、周囲には手入れの行き届いた花壇が配置されている。
 中庭を囲む建物は同じような外観に同じような建築材を用いて作られており、場所を把握する手助けになりそうな建物はない。
「さて、どうしますかねえ」
 独り言を呟き、何の気なしに再び遥か下の中庭をみやる。
 飛び降りてみようかとも思ったが、教会の尖塔の天辺から飛び降りるほどの高度を考えてみればさすがに思いとどまった。
 魔力を使えば何とかならないことも無いがその間守りはがら空きになる。
 中庭、つまり周囲の建物全てから丸見えというその場所でマリアの自殺じみた行為に誰も気がつかないはずがない。
 半ば賭けのようなその案をしぶしぶマリアが脳内から削除したとき、中庭に2人の人影が現れた。
 咄嗟に窓際から離れようとしたが、マリアの優れた視力はその2人の服装と容姿を完全に捕らえていた。
 一方は長い黒髪を背中の辺りで無造作にくくり、濃紺の衣服を身に纏っている。
 もう一方は肩ほどまで伸ばした銀の髪をそのまま後ろに流し、白の上服に黒い下服を合わせている。
 後者は間違いなくフェルスだ。
 そしてもう一方は・・・。
「何でエドがんなとこにいるのよ・・・っ」
 彼に見つかるくらいなら魔族に見つかった方がマシかもしれない、と一瞬本気で考え慌ててその思考を取り消す。
 ここで彼らと合流できなければ、次はいつになるか分からない。
 そう腹をくくると、マリアは錆付いた窓を渾身の力で押し開け、窓枠に足をかける。
「形無き者よ、姿無き者よ、されど偉大なる者よ、」
 その言葉に魔力をのせるとマリアは一気に体を宙に躍らせた。
 落下感に集中力が乱されそうになるが、ここで気を散らしてしまえば間違いなくあの世行きである。
 全ての気力を総動員して集中力を維持すると、マリアは一気に残りの言葉をいいきった。
「長き腕にて我を抱け。その柔らかなる褥に我を迎え入れよ!」
 言葉と同時に、落下速度が徐々に緩み始める。
 完全に落下が止まったわけではなかったが、落ちながら体制を整えるとマリアは体に余分な負荷をかけることなく地面に着地した。



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