右手に下げるは小さなトランク。中には昨晩手当たり次第に放り込んだ必要と思われるものが入っている。
例を挙げれば、お気に入りのリップバームに化粧水、読みかけの本あり、作成途中の報告書あり、果てには枕まで。
それら全てが整理されることなく区切りもない箱の中に詰まっているのだから、もし誰かが中を覗いたら目を覆っただろう。
が、当の本人マリアは一切気にしてないようである。トランクを前後に振りながら路地を闊歩していた。
今日の出で立ちは堅苦しい聖服ではなく私服である。
つまり彼女は休憩の最中だったのだ。それが自身で望んだものでなかったにせよ。
エドアルドの根回しであろう、いとも簡単に休暇は許可されマリアは晴れて聖服から開放され、現在にいたると言うわけである。
トランクを片手に下げたマリアが目指すのは王都の中心、貴族達が屋敷を構える界隈である。現王の実の妹であり、グラニール地方の領主であり、公爵の身分を有し、国民から緑の姫と呼ばれるのがマリアの養母アリアーナである。その彼女が王都に有する屋敷へと向かっていたのだ。
貴族と一括りにしても、没落しかけた名前ばかりの貴族もあれば王の信頼も厚く莫大な資産を有する大貴族まで幅広い。
どの貴族が有力なのかを簡単に見分ける方法の一つは王都の邸宅の位置を調べることである。つまり、王宮に近く屋敷の規模が大きければ大きいほどその貴族は有力ということになる。
が、何事にも例外が存在する。
王宮に程近いその通りには意匠が凝らされた美しい邸宅が建ち並び、その庭園からは濃い緑の葉が塀の上から姿を覗かせている。
馬車2台が並走しても余裕のあるその通りはマリアにとって慣れ親しんだものだ。
4、5階建ての建物がほとんどのその通りに1つだけ他に比べれば小さい3階建ての建物がある。その代わりと言うべきか、その邸宅の庭は明らかにその通りで一番広い。
普段の聖服ではなく、濃緑色のドレスを身に着けたマリアは何の気負いもなくその邸宅の正門に立つとベルを鳴らした。
しばらくの後、門の向こうから給仕服を身に着けた初老の男性が現われ、マリアの姿に目を止めるや否や走り出した。
「お嬢様、お帰りになられるのであればお迎えに上がりましたものを…」
そう言いながら門を開け始める。
「元気そーね。サティは?」
「相変わらずですよ、あれは」
錆一つない手入れの行き届いた門が音も立てずに開いていく。
その門が完全に開ききる前に、出来た隙間に身を滑り込ませたマリアは男に礼を言うとそのまま屋敷に向かって歩きはじめた。
背後から荷物を運ぶ旨の声が聞こえたが前方を向いたまま軽く手を振って断る。
部屋の入口に置かれた荷物台にずっと提げてきたトランクを置く。
床は磨き込まれた木製の床である。この部屋はマリアの自室だが3部屋続きになっており、広い順に寝室、書斎、簡単なテーブルセットが配置されたこの部屋、となっている。
金色のノブが取り付けられたドアを押し開くと、大きな姿見と化粧台、クローゼットルームの扉が目に飛び込んで来る。そして視線を移せば、陽光を降り注ぐ出窓とその横に設置されたベッドがある。
マリアにとっては幼い頃僅かに過ごした記憶があるのみなのだが、その頃と何一つ変わらない様子は暗に、いつ主を迎えても良いように念入りな手入れが行い続けられている事を示していた。
靴を脱ぎもせずにベッドの上に身を投げ出す。シーツからは僅かに花の匂いがした。わざとらしい香水ではなく、庭に植えられた花の移り香である。
マリアにとって少なくともこの屋敷は我が家ではない。
物心着く頃までは領地の屋敷で暮らしていたし、その屋敷を離れてから今まではずっと教会の寮暮らしだったのだから。
父母が領地から王都に登った時くらいだろうか、マリアがこの屋敷に足を踏み入れたのは。
ベッドの上で仰向けになったまま、そんな事を考えていればノックの音が聞こえた。
と、同時にノブが回る音がして寝室へと足音が近付いて来る。
そして再びノックの音。
今度はそのままノブを回すことなく中から返答が返るのを待っているようだ。
「入っていいわよ」
ベッドから起き上がりもせずにマリアかそう言うと「失礼します」という声がして扉が開いた。
視線だけをそちらに向けると簡素なドレスを身に着けた老婆が、しかし威厳を放ちながら立っていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。お疲れのところ大変申し訳ありませんが奥様よりイブニングを数着用意しておくようにと言付かっております」
「んげ」
「差し出がましいかとは思いましたが、お時間も限られておりますので数着ほと私が仮縫いの状態でご用意しております。細かな寸法合わせを行わせていただきます」
言い切るや否や老女が背後を向き声を掛けると、大量の布地や裁縫道具、トルソーを抱えた女性が5、6人マリアの部屋になだれ込んで来た。
何でさっさと目を閉じて眠っておかなかったのだろうと後悔しても後の祭りである。
マリアは小さく溜め息をついてからベッドから立ち上がった。
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