眠りの森の魔王様 第四章-4
  



 広間の扉は開け放されており、人々の熱気がこもった空気とじっとしていれば肌寒さを感じるだろう夜気が混ざり合ってちょうどいい。
 マリアは徐々に広間の中央から抜けだし壁際に移動していた。
 マリアとエドアルドが広間に入った時にできた人の群れはしばらくの間散ることはなかった。たがその目的はマリアではなくエドアルドである。
 少しずつ少しずつ群れの中心から抜けだし、給仕の者から飲み物をもらうふりをしながら人が少ない方へと移動してきたのだ。
 おかげでただでさえ苦しいコルセットでぎちぎちに絞められたウエストは、3杯も飲んでしまった飲み物のせいで相当に苦しくなっていた。
 早くこんな場所からはおさらばしたいと思ったところで、未だ夜会が始まってすらいなかった事を思い出す。なにしろ、屋敷の主の挨拶すらまだなのである。
 そろそろ始まっていい頃合なのだが、一向にその様子はない。
 が、それも仕方ないだろう。
 今日の夜会の主賓が未だ姿を表さないのだから。
 僅かな苛立ちを覚えながらマリアは中庭に目をやった。
 中央に設けられた小さいながらも見事な彫刻が施された噴水には雄々しい一頭の獅子が屹立し、その口元から溢れる水流はガス燈の明かりを反射させながら滔々と流れ続けている。
 その様をぼんやりと眺めていると入口付近が急に騒がしくなった。
 しかしマリアは中庭に向けた視線を微動だにさせなかった。この時間帯になってあそこまで衆目を集める参加者など1人、いや一組しかいない。
「ようやくお出ましってわけか」


 マリアの位置からはかなり離れたその場所で出席者達の関心を奪っているのは1人の青年である。
 少し癖のある金髪を首の後ろで緩く纏め、白地に金糸の刺繍と縁取りというど派手な礼服を身に着けている。褐色の瞳には人懐こそうな光が浮かび、口元にはやはり人好きのする笑みがたたえられている。誰あろう、数日後に控える立太子式の主役でもあるケイルである。
 その横に寄り添うのは男とは対照的に真っ直ぐな金髪に幾つもの輝石を編み込んで背に流した少女だった。白磁の肌に薔薇色の頬、早朝の澄み切った空を思わせる薄青の瞳。ケイルの婚約者であり、今日の夜会を主催した宰相の娘でもあるセシリア・グラモンドである。
 似合いの2人であることを否定する者はまずいないだろう。
 どことなく顔立ちが似ているのはセシリアの祖母が降嫁した王女であるため不思議はない。
 その2人の様子を満足げに眺めるのはセシリアの父である宰相だ。国王と公私において親交が深い彼は若い頃社交界の花形であったというが、女性達の関心を誘ったその容姿は年を経ても衰えることを知らず、むしろ男性として成熟した色気を兼ね備えたようである。
 恭しく、しかし親しみを込めてケイルへの挨拶をすませた宰相は、しばらくの談笑の後よく通る声を張り上げた。
「今宵は拙宅にお集まりいただき感謝を述べたい。数日後にはめでたき日を控え、皆喜んでいることだろう!これ以上野暮な話は止めよう、今宵は皆存分に楽しんでいってもらいたい」
 その言葉が終わるや否や、広間の奥に控えた楽団が演奏を始めた。
 真っ先に中央に躍り出たケイルとセシリアのカップルを先頭にいくつも男女が手を取り合い、一瞬で広間は翻るドレスの布地とステップを踏む足音で溢れかえった。

 流れてきた音楽にようやく我に帰ったマリアは中庭から視線を外し、広間へと戻す。いつの間にか主の挨拶も終わり、ダンスが始まっていた。
 ふと周囲を見やれば、マリアと同じく壁の花と化していた少女達が消えている。いつの間にかパートナーと広場の中央へ躍り出ていったのだ。
 しまった、とマリアは周囲の様子を探る。
 こんな場所に、しかも背後の壁と溶け込みようのない明るい青のドレスを纏って一人で立っていれば、いかにもどなたか誘ってくださいと言わんばかりではないか。
 まだダンスは始まったばかりで、会話に興じるものも幾人もいる。
 そう判断すると、マリアは素早く開け放たれた扉からテラスへと足を踏み出すと広間から姿が見えない位置へと移動する。
 宴が始まって間もない。先客などがいるはずも無く、マリアはその場を一人占拠すると夜風を全身で受け止めた。
 まだ初夏の時分である、涼気を孕んだ風は酒と夜会の雰囲気に少々酔った体には心地よかった。
 風に乗って運ばれてくるのは甘い花の香り。
 フィルナである。
 他の薔薇が散り始めたころに王都の地のみで盛りを迎えるこの薔薇はその芳しさで有名だが、その外見は一重咲きの白い花で清楚ではあるがともすれば周囲の緑に埋もれかねない。
 控えめだが甘いその香りに濁りがないことから、屋敷の主がフィルナの庭園に他の香りある花を植えるという愚を犯していないことがわかる。
「ま、植えられてたとしてもその花が可哀想なだけよね」
 小さく1人呟き、早く時間が過ぎることだけを願う。




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