眠りの森の魔王様 第四章-5
  



 不意に背後から人の気配が近づいて来た。逃げようにも元々逃げ場もないし、ここで慌てて広間へ戻るのも不自然すぎる。
 マリアは何事も察さなかったかのように装い、庭に向けた視線を固定したまま誰かが近づくのを待っていた。
「早々に避難したな」
 声の主は振り向かずともわかる。相手に悟られないように軽くため息をついてからそちらへ向き直ると、とってつけたような笑みを顔に貼り付け応じてやる。
「これはこれは、王太子ケイル様におかれましてはご機嫌麗しゅうございます」
「気色悪い」
 途端に帰った返答は一言。
「珍しく夜会に姿を見せたかと思えば、案の定隠れてやがるし。エーベルの長男に紹介してくれって頼まれたのにさ」
「エーベル?ああ、ギルベルトね。冗談は止めて」
「社交界に姿を出さない割にはよく名前知ってるよな。で、我が従兄妹殿はなんで夜会なんぞにでてるわけ?」
「どこかの暢気なお2人さんの予定が狂ったせいよ」
 王太子、とは言ってもマリアにとって立場上は従兄弟であり、幼いころの遊び友達である。人前でなければ言葉遣いも畏まる必要は無い。
「イスツベルグで足止め食らってるわけか。鉄道も止まったしな」
「その通り。おかげであたしにはいい迷惑よ」
「そうでもないぞ。お前がこっちに顔出さないから、まことしやかに噂が流れてるの知ってるか?」
「うわさ?」
「病床に臥せり立つこともままならない薄幸の妹君は、兄君たるエドアルド様の持ち帰る王都の話を毎夜健気に待ち望んでいらっしゃる、だとさ」
 ここまで現実と食い違った噂ならば笑う気すら起こらないものである。
「教会幹部と貴族院の連中はあたしが毎日王都で暴れてるのをご存知のはずですが?」
「いまさら、だろ」
「それもそーね。ってあんたそろそろ戻りなさいよ。ケイルと話してる所を見られてネチネチ言われるのはあたしなんだから」
「退散しようと思ってたところだよ」
「珍しく英断ね。早く戻らないとセシリア嬢を盗られるわよ」
 手でしっしと追い払いながら、ケイルを見送ってやる。マリアの言葉に慌てたのかは知らないが、広間への入り口で僅かに足を躓き体が傾いだのをマリアは見逃さなかった。
「ベタ惚れね。まー、あの美貌で性格もいいんだからケイルでなくてもあの反応が普通なんでしょうーね」
 マリアは1人呟くと再び体を翻し、しばしの間庭を見つめた。
 そしてどの位そうしていたのかは分らないが、火照っていた肌がすっかり冷め寒気を感じるほどには時間が経っていた。そろそろお暇させてもらってもよい頃合いだろう。密かに広間へと戻り、給仕の者を捕まえて帰りの車を用意するように頼んだ。
 目立たぬように壁沿いを伝い控えの間へと足を向ける。背後では未だワルツが奏でられ、宴もたけなわと呼ぶに相応しい光景があったが、マリアは微塵の名残も感じなかった。
 控えの間で迎えの者を待つ者は流石にまだいなかった。そもそも夜会は貴族にとって政治の場に他ならない。有力な者に近付き関係を結ぶことは家の存続に関わる。まして、今日の夜会は宰相が催したものである。次期王太子を招いたこの夜会の招待状を貰えるということは貴族にとって名誉なことだ。まさかこの時間帯で姿を消そうとする者等あるはずもなかった。
 2名の従僕が控えてはいたが流石に宰相家に支えるだけはある、この場に1人いるマリアに居心地の悪さを感じさせることもなく静かに控えるのみだ。
 と、静かに扉が開き二組のカップルが入ってきた。淡い紅色のふわふわしたイブニングに見事な金髪の娘と鮮やかなしかし品のある緑色のイブニングに栗色の髪を高く結い上げた娘である。エスコートをする二人の青年はまあ似たり寄ったりの格好で大して特徴もない。
 この場で挨拶をせずに済ますという選択肢はマリアが王族の一員である以上、あり得なかった。嫌々とはいえ夜会に出席した以上、王族の端くれであるマリアにはそれなりの責務がある。
 しかし、暫くの間その2組にはマリアが誰であるか分からなかったようだ。滅多に公の場に姿を見せないのだからそれも無理もない。
 が、そっと従僕からの耳打ちを受けた彼らは嬉々としてマリアのもとへと近づいてきた。
「初めてお目にかかります」
「ごきげんよう」
 にっこりと微笑みながら応えてやる。
「私は・・・」
 4人分の自己紹介が一気になされたがもう会う事もあるまいと高をくくったマリアは適当に聞き流しながらも1人1人に会釈をむけて応じるフリだけは完璧にしてみせた。
 一通りの挨拶が終わり、軽い談笑が始まりそうになった時にまた1組のカップルが入ってきた。どのカップルにせよ一夜の会瀬を楽しむつもりなのであろうが、いずれにせよ出世は見込めそうにないとマリアは胸中で呟いた。
 5人のもとへ近寄ってくる新たなカップルに目をやれば、女の方にはどことなく見覚えがあった。プラチナブロンドの豊かな髪と海を思わせる青の瞳。美しいことには美しいのだが如何せん高慢ちきそうな性格が明らかに表情に表れている。
 誰だったかとマリアが心中で呟いた時、女が口を開いた。
「ご無沙汰しております、と申し上げても?」
 僅かに考えた後マリアは素直に誰かを問うことにした。公の場に姿を見せたのは久々のことなので尋ねても無礼に当たらないと考えてのことだ。
「申し訳ありません。ここ数年は領地から出ていないので・・・。お名前を伺ってもよろしくて?」
「昔、城で遊んだこともある仲ですのに悲しいですわ」
「申し訳ありません」
「あら責めているわけではなくてよ。私エスター家のアデリアと申します」
 エスター家と言えば王の諮問会議を代表する、宰相家とも並ぶ大貴族である。ならば王城でともに遊んだというのも嘘ではないだろう。
 そんなことを考えていれば恭しく近づいてきた従僕に迎えが到着したと告げられた。これ幸いとばかりに簡単な挨拶を延べ控えの間から出ていこうとしたマリアの耳に届いたのは嘲るような口調の女の声だった
「よくも汚らわしい気を撒き散らしながら姿を表せたこと。知っていらして?あの者は王族とは名ばかりの没落し果てた落籍貴族がこともあろうに負の気を持つ市井の者との間に設けた子でしてよ」
「まぁ、本当に?」
「ええ、本当よ。アリアーナ様も何をお考えになってあのような者を養子になさったのか」
 話は延々と続くようだったが、マリアはさして気にも止めずに歩みを進めた。すぐに女の声も聞き取れない程に遠ざかってしまう。
 門の前につけられた馬車に手を借りながら乗り込むと、静かに動き出したその中でマリアは大きくため息をついた。
「さぁ、何が真実かなんて私自身にも分からないのに。いっそその言葉が事実ならばその方がまだ気楽だっての」
 慣れぬ振る舞いをすることは本当に疲れるものだ。馬車の中でマリアは襲ってくる眠気を懸命に堪え続け、早く邸宅へ着くことだけを願っていた。今ほど寝床が恋しかったことは無いのではないかとさえ思う程だった。



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