眠りの森の魔王様 第四章-6
  



 軽いノックと同時に声が響いた。
「奥様と旦那様がお着きになりました」
 換言すれば、出迎えに顔を出せと言いたいのだろう。だが、いまだ寝具の間に挟まっているマリアの状態では部屋の外に出ることすら論外だ。
 櫛を通していない髪はあちこちで絡まってぼうぼうだし、瞼は微妙に腫れぼったい。おまけにネグリジェのままで服すら着ていないのだから、貴族のしかも年頃の娘が人前に姿を出していいはずがない。
「いま、起きたところ。食事の時に会う」
 その返答を予め予想していたのだろう、扉の外の人物はそれ以上何も言わなかった。
 これで一安心と、再度目を閉じようとした時だ。
 ノックすらせずに扉が開かれる音がした。何事かとようやくマリアが 上半身を起こすと、それと同時に寝室の扉が開かれた。
 うっとおしいことこの上ない長髪を束ねることすらせずに垂らしたまま、服を着込んだ男が入ってくる。
 いくら兄とはいえ、女性の部屋に許可なく立ち入るのは無礼な行為である。このクロィツェル家を除けば。
「朝っぱらから騒々しいわねー」
「朝か昼か夕方かと問われたら間違いなく夕方に近い時間帯だ」
 思いの外、とろとろと眠りの中にいたらしい。朝とは思っていなかったがすでにそんな刻限だとは流石に思っていなかった。
「いつの間に。で、花も恥じらううら若き乙女の部屋に無断で踏み込んでくるってのは一体どういう了見なわけ?」
「国中の乙女に失礼な発言をするな。まだ寝惚けてるのか?」
「あんたが一番失礼よ!」
 そうエドアルドに向かって怒鳴り付けると、寝具の中に潜り込んでやろとしたがその動作には途中で邪魔が入った。
 掛け布団を取り上げられたのだ。
「何よ?」
 憮然とした表情でエドアルドを睨み付けてみる。が、効果はなかった。
「起きろと言っているだろうが」
「起きてもすることないんだからいいじゃない」
 その言葉にエドアルドが軽く嘆息するのがわかったが無視する。視線をエドアルドから剥がし、窓の外を見る。繁った緑が目に眩しいほどだ。
「2日後には登城するんだ。準備も必要だ。立太子式に無様な振る舞いは許されないぞ」
「はいはい。って言っても荷物の類はマーサが纏めてるだろうし、格別あたしがやらなきゃいけない事とかないわけ」
 窓の外へと視線を逸らしながらそう言うと、軽い音と共にベッドにエドアルドが腰をかけて来た。
 どうやら起床を促すだけが目的ではなかったらしい。
「何かあったのか」
 静かな声が頭上から落ちてきた。
 瞬間的に、卑怯だと思ってしまう。嫌がる自分をここまで引きずりだしておいて、今更気遣いを見せるなど卑怯以外の何ものでもないではないか、と。
 しかし、そうは思いながらも自分自身でも自分の気分がよく分からなかった。エドアルドが気遣うほどに自分は不調に見えるのだろうか。
 何かあったのか、と問われれば何もなかった。アデリアのように比較的王家に近しい貴族からの誹りは今に始まったことではない。慣れきったことだ。今更そんなことで自分の感情が乱れるはずもない。ただ、疲れたとは感じていた。
「あたしは余計な布地を馬鹿みたいに大量につけたびらびらの服にも、足を痛めるために作られたとしか思えない靴にも慣れてないわけ。しかも愛想笑い振り撒いて一晩突っ立てたの。疲れて当然でしょーが」
 無難な返答が口を継いでいた。
「招待客の中で最初に退室したと聞いているが?」
「情報がお早いことで」
「一緒に入場した相手に一言言葉をかけるのは礼儀というものだ。私に恥をかかすな」
 流石に言葉に詰まったが、謝る気は起きなかった。
「いーじゃない、カップルってわけじゃないんだから!」
「その言葉を言う前に、未だに相手がいない己を恥じろ」
 薮蛇にも程がある、と思ったがここで言い返すのは得策ではない。社交界に顔を出さず、未だに相手がいないというのは貴族、しかも王族に繋がる大貴族の令嬢としては前代未聞だろう。反論しては、再びお説教が始まることは目に見えていた。
 黙ったマリアにエドアルドが続ける。
「お前は拒否するが、お前がマリア・クロイツェルであるという事実は覆えらない。どれ程拒否したとしても王族の籍を抜けることはお前に許されていない。分っているだろう」
 言葉とは裏腹に、マリアですら滅多に聞くことのない優しい声だった。
「居心地の悪さも、お前が負う荷の重さも少しは理解しているつもりだ。お前が頼れる相手は私しかいないだろう?」
 また、卑怯だと思う。
「少しは、昔のように頼ってこい」
 視線を窓の外に向けていて良かった。面と向かってこんな事を話すには自分もエドアルドも成長し過ぎている。
 ぽん、と軽くマリアの頭を撫でたエドアルドはそれ以上は何も言うことなく部屋を出て行った。
 1人部屋に残されたマリアは寝具を手繰り寄せると頭からかぶり、その中に潜り込んだ。
 そして思う。気弱になっている、と。
 魔族と対峙して力を振るう時にすらこんな気持ちになることはない。鋭い爪で腕を抉られた時も、肌を焼く異臭に顔を顰めた時も、己の放った力が一蹴された時にも、むしろ闘士がわいていた。にも関わらず、ただの一度、ほんの数刻、社交の場に出ただけで疲れ、気弱になっている自分はおかしいのかもしれない。
 しかしどうしようもなかった。
 この空気はマリアに合わないのだ。窮屈で、居場所がない。出て行けと言われずとも、叶うならば自ら捨て去りたいこの場所は、マリアの存在を糾弾しながらも出て行くことを決して許しはしない。
 そしてその事で兄が、エドアルドが心を痛めていることにマリアは気付いていた。冷たい容貌の下に、昔から変わらない親愛の情が潜められていることにも。
 本当に卑怯なのはマリア自身に他ならないと、心の奥では気付いている。逃げ出したいと言いながら、逃げ出す先すら見つけず、ただ赤子のようにだだを捏ねている。もうそろそろ、現実と向き合わなければならない。
「あー、止め止め!」
 その声と同時に突如として身を起こすとようやく寝台から出て立ち上がる。
「そう、寝すぎて逆に疲れただけじゃない!何もせずに悶々、なんてあたしじゃない」
 自身に言い聞かせるように言葉を続けると、寝室をでて隣室に向かう。廊下へと繋がる扉に程近い机の上に用意された洗面具に水をはると、ぬるいその水で顔を洗った。
 用意されていたタオルで無造作に顔を拭うと、軽く首を回してから体を動かす。
 たったそれだけの事ではあったが、軽い運動が終わると体の疲れはほぼ抜けており、頭もすっきりとしていた。
「登城の準備って言っても、あたしがしなきゃいけない事なんて思いつかないし。・・・立太子式の流れ位は聞いといたほうがいいか」
 そう言ってから、ふと考えてみると立太子式どころか建国祭ですらどのような事をするのかを自身が知らないことに気付く。いや、建国祭については王城の外門が一般に公開され、そこで執り行われる儀式を庶民が拝謁するという一大行事がある事は知っている。が、その儀式の内容や王侯貴族がその儀式で果たす役割については一切知らないのだ。
 少なくともその程度の知識は入手してからでなければ、とてもではないが登城後に貴族連中との話についていけるはずも無い。
 まず、衣服を整えて、エドアルドの部屋へ向かわなければならないようだった。



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