音がしたわけではなかった。
それは単なる彼の勘だった。
それでも彼は読んでいて本から顔を上げ、廊下へとつながる扉の方に目をやった。
瞬時に彼の顔がこわばる。
そこにはぐったりとした彼の姉を肩に担いだ、冷たい顔をした男が立っていたのだ。
「何者だっ!?」
誰何の声と同時に寝台に横たえていた体を起こしたが、急激な動きについてこれず彼の体が悲鳴を上げた。即座に頭痛とともに吐き気が彼を襲った。
口元を押さえながら、力無く彼の体は再び寝台へと沈む。普段にまして、病弱な自分の体が疎ましくなるが、今更愚痴を言ってみても何ら状況が好転するわけでもない。
込み上げてきた酸っぱいものを何とか喉の奥に押しとどめると、今度は慎重に体を起こす。
「何者だ、どうやってここへ入った」
男には分からないように、シーツの下へ隠してある短剣に手を伸ばしながらもう一度同じ質問をくり返す。
「……魔術を使っただけだ」
魔術。
その答えを聞いた瞬間に、彼は短剣から手を離した。
この大陸で、魔術師に逆らうことほど愚かしいことはない。下手に武器を持って、相手の警戒を買うよりは、無手の方がいい。
「賢明な選択だな」
男が薄く笑いながらそういう。どうやらこちらの動きは最初から読まれていたようだ。
「……姉さんに何をした」
肩に担がれたままの姉の姿を観察しながらそう問う。出血もしておらず、胸がゆっくりと動いているところをみると、気絶しているか眠っているかということになる。
「正式名はレイト=ジーグ=セジュ=ミレグリットだったな」
男はこちらの質問に答えることなく、逆に確認をするかのような口調で彼に話しかけてくる。しかしその口調にもかかわらず、彼がその名前の持ち主であることを確信しているらしく、返答の間も与えずに言葉をつなげた。
「俺はおまえの姉から契約を破棄する依頼を受けた」
考えてみればその通りだった。
彼の姉は契約を解く方法を探していた。その姉が魔術師とともに帰ってきたのならば、契約を解く当てが見つかったということなのだろう。
ぐったりとした姉の姿を見ただけで冷静な思考を忘れてしまった自分を恥じながらも、彼は気を許そうとはしなかった。
「そんなことはどうでもいい。姉さんをどうしたのかと聞いているんだ。返答によってはその命、ないと思え」
はったり、というわけではなかった。
彼は常に姉から与えられた護符の類を身につけていたし、その中には退魔の剣も含まれていた。
「ローズのいっていた弟とはずいぶん性格が違うな。まあいい、安心しろ、危害は加えていない。ただ眠っているだけだ」
「話はだいたい分かった。だがなぜ姉さんを眠らせる必要があった?」
レトは自分の寝台の上で眠り続けている姉を見ながらジェイドに尋ねてみた。
「……こいつの体力はそろそろ限界に近かった。それに起きたらまたお前のことで騒ぎ出すのは目に見えていたからな」
「何時、目を覚ます?」
「すべてが終わったあと、だ」
「二十日後、ということか?」
レトのその問いに、ジェイドは首を横に振った。
「説明してやれ」
ジェイドはレトの方ではなく、部屋の天井の方に向かってそう声をかけた。するとジェイドが視線をやったあたりから、何の前触れもなく少年が姿を現した。
誰あろう、ことの発端を引き起こしたシグルスである。
「あー、えっと。僕のこともう聞いてるんだよね」
「要するに、僕の体をこんな風にした張本人なんだろう」
笑み一つ浮かべずにレトそう言いきる。
「うっわっ!なあジェイド、これ本当にローズが言っていたか弱い弟さんかい?どこが繊細で大人しいんだよ」
自分と同じことを思ったらしいシグルスに同意しようとまでは思わず、説明をするようにと睨み付ける。
「怖い怖い。簡単に言うとだね、異界とこっちの世界じゃ時間軸がずれてるんだよ。そうざっと、17、8日くらい。異界の時間では君は明日13歳になる、つまり契約者になるんだよ」
「さすがのローズもそのことは知らなかったらしいな。まあ、知ってる奴なんてこの大陸でも10人いるかいないかってところだからな」
これにはレトも驚いた。
いきなり部屋に見知らぬ男が押しかけたかと思えば、明日契約者になります、といわれて驚かないものがいるはずもない。
とりあえず、真っ先に浮かんできた疑問をそのまま口に出してみる。
「………これからどうするんだ?」
その質問に返ってきたのは、
「何もしない」
それはシグルスの声だった。
そして、それに続けるかのようにジェイドが話す。
「明日になれば否が応でも闇王はお前の前に現れる。現れてお前の体ごと自分に取り込もうとするだろう。そのときにシグルスが、悪く言えばいかさまして、お前の体の中に取り込まれている時空の気だけをとりだして闇王に渡す。それでお終いだ」
淡々とそう言ったジェイドにシグルスが不満そうな顔をする。
「そう簡単そうに言わないでくれる?かなり難しい術だし、闇王の機嫌を損ねちゃったら力づくで事を運ばないとならないんだよ」
「だからこそお前がやるんだろうが」
正論と言えば正論な意見を容赦なくジェイドが言う。
そのジェイドの言葉に何とか言葉を返そうと頭をひねっているシグルスを尻目に、ジェイドはレトを見ながら言う。
「お前、ローズの前で猫かぶっているだろう」
「違う。僕は好意には好意を、悪意には悪意を返す。それだけのことだ」
要するには、ローズの前ではいい子として振る舞っているのだから、大差はない気がしたがジェイドはあえて言及しようとはしなかった。
「………お前、魔術に興味はあるか?」
ジェイドの口をついででたのはそんな言葉だった。そして、ジェイドの目はレトの目の奥がわずかに揺らいだのを見逃さなかった。
「全部終わったら、俺の弟子にしてやるよ。ローズとは違って魔力を持ってるみたいだからな」
「そんなことをしてお前に何の利益がある?」
「さあな。まあ、でも、これから長いつきあいになるだろうからな」
「どういう意味だ?」
二人の会話の横でシグルスは未だに頭をひねっていた。
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